こんにちは。grow-upです。
自分の評価というのは自分がするものではなく、他人がするもの。人の目を気にして生きてしまうというのは必然とも言えるでしょう。
他人の目を気にするというのはネガティブに聞こえます。しかし、他人に目によって自分を評価できるとも言えます。もちろん、他人の意見に流されて自分を見失うのはナンセンスですが、”頑張ってるつもり”で終わらせないのはとても重要なことだと思います。
私は今の職場の飲み会が嫌いです。どの飲み会に行っても必ずどこか、あるいは誰かの批判大会が始まるからです。しゃべる方は鬱憤が晴れるかもしれませんが、聞いている方は決して気分のいいものではありません。「あいつはだめだ」「上は何もしてくれない」。会の後半はだいたいそんな話で盛り上がる時間になります。
不運なことに私の部署はこの批判の格好の標的にされることが多く、腸が煮えくり返ることは一度や二度ではありません。私の年が若いことをいいことに、好き放題言うわけです。それが私の職場の飲み会の恒例行事となっていました。
オンライン飲み会開催
本日は今流行りのリモート飲み会が開催されました。在宅が基本のため断ることは出来ません。自宅からパソコン越しで酒を飲みながら会話します。
時間は進み、やはり恒例の批判大会へ。。またかよ!と思いながらも苦笑いで話を合わせる。
「お前の部署はほんとにアンテナ低いよな」
「君の部署は今何を話し合ってるの?行動遅すぎて意味ないよ。ほんと普段なにやってるの?」
「今月なんか企画した?やってないでしょ?結局やったもん勝ちなんだよ」
はいはい〜またいつももやつね。早くこの飲み会終わってくれないかな〜と思っていましたが。。。
ん?なんか今日はいつもと感じ方が違う。。
今回は飲んでるフリをしてシラフでいた分、いつもと感じ方が違いました。批判的な人はただのひねくれ者ではなく、
- 自分の意見を持っている人。
- 他人を批判できるだけの成果を出した人。
- 少なくとも自分が指摘したことは遂行出来ている人。
と感じるようになったのです。ある程度自分がやってきた自負があるから他人に口を出せる。見下せる。評価できる。
逆に言えば、批判的なことをチマチマ言われてる間はまだまだなんだということです。彼らの言葉は自分への評価なのだから、肯定的に捉えて自分の成長に繋げた方が合理的だと考えるようになりました。どこまで行っても何をしても批判的な人はあらわれると思いますが、少なくとも「自分はそれくらいやってますけど?その案は考えてますけど?そのことについても知ってますけど?」とスッと言えるように努力し続ける必要はあります。
今まで彼らの批判に腹が立っていたのは、実は図星できちんとやりきれていない自分への後ろめたさからだったのかもしれません。
自分に嘘はつけませんからね。
このことに気付かせてくれた今日の飲み会は有意義でした。私の長所は反骨心なので、今からまた頑張れるエネルギーを得ました。
何事にも捉え方で意味がある。やはり人生無駄なことなんてない!
読んでいただき、ありがとうございました。
コメント